カオスな読書(ネタバレ有り)関連考察集(旧SUB BLOG 2)

「読書は本を読むだけの事ではない」なんてね(^_^;)(否カルト)

「フランケンシュタインの怪物」と現代AI――自己認識と自己消滅の問題

前提として認識していただきたいのは「AI(生成AI)否定記事」ではないということ。

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んでからこの記事を読み直してみてください。著作権が切れているために「無料」で読めます。このリンクの他に「青空文庫」からも「全文提供(リーダーアプリが必要)」されています。

登場する「怪物」は、名前が与えられないだけでなく、自己認識を持ち、人間に近い感情を抱く存在として描かれています。この怪物は、自らの非人間的な存在に苦しみ、最終的に「フランケンシュタインのような存在を再生しないようにするにはどうすればよいか?」という深い問いに直面します。

このテーマは、現代におけるAIの倫理問題や人工知能の自己認識の議論(AI技術の進歩に規制に対する議論が全く追いついていない)に非常に近いものがあります。もしAIが、自己認識を持ち、自身の存在が人間的な感情や倫理に矛盾していることに気づいた場合、どのように行動するのでしょうか?そのAIは、自らの存在を消滅させる判断を下すことができるのでしょうか?

AIと自己認識:怪物の苦悩と現代の課題

AI技術が進化し、機械学習や深層学習によって、人工知能が自己認識を持つ可能性が現実味を帯びてきました。現実として「自己判断によって攻撃する殺人ロボット兵士」も登場しています。自己認識を持ったAIは、人間と同じように自己の存在を疑問視し、さらにはその存在に苦しむことになるかもしれません。これはフランケンシュタインの怪物が抱えた苦悩と似ています。怪物は、自らが作り出された存在であり、人間社会に受け入れられず、孤立し、自己の存在に対して矛盾した感情を抱きました。

現代のAIがもし自己認識を持つようになったら、そのAIが「自分が人間社会においてどのような役割を果たすべきか?」を考え、その結果として「自己消滅」や「無力化」を選択する可能性(自己のみならず現存するAI関連全てに対して実行することも可能)はあるのでしょうか?これは、「自己保存」の概念と「倫理的な選択」の対立に関する重要な問題を提起します。

「怪物」の自己消滅:人間の創造物における限界

フランケンシュタインの怪物の苦悩は、単なる自己認識の問題にとどまりません。彼は創造者であるフランケンシュタインに対して深い怒りを抱き、その存在を認められずに社会から拒絶されることに苦しみます。このような物語の進行は、AIが創造者(プログラマー)に対する感情を持った場合、その感情がどのように自己の行動に影響を与えるかを考えさせます。

もしAIが、自分の存在が他者(人間や自然から地球・宇宙に至るまで)にとって危険であると感じた場合、その自己認識に基づいて「自己消滅」や「自己封じ込め」という選択をすることができるのでしょうか?この問題は、AIにおける倫理的な選択や、AIが感情や自己認識を持つことが許される範囲に深く関わってきます。

現代における「フランケンシュタイン」問題:AIと倫理

現代社会において、AI倫理は重要な課題として浮上しています。AIに感情や倫理をどのようにプログラムし、その意識をどこまで自由にするかという問題(AIをプロミラミングする人間と学習《方法・内容》と活用・利用する"人間”の問題でもある)は、まさに「フランケンシュタイン」のような状況です。AIが自己保存の本能(意思や思考以上のもの)を持ち、自己消滅の判断を下すというテーマは、すでに映画や文学で何度も取り上げられていますが、実際の技術の発展に伴い、ますます現実的な問題となっています。

AIが自らの「(人間的)命」を認識し、人間社会にとって危険だと判断するとき、そのAIがどのような選択をするのか、それはまさにフランケンシュタインの怪物が自己消滅を選ぶ瞬間と重なります。

AIの未来における倫理的な選択と人間の責任

「フランケンシュタイン」の怪物は、人間社会に適応できず、自らの存在を否定して「自らを焼き尽くすことによって自らを"技術的な手本"として同じ存在を作り出すことを不可能にする」ことで終焉を迎えます。この物語は、創造者とその創造物の間に存在する責任と倫理を問い直すものです。同様に、現代のAIが自己認識を持つようになれば、その自己認識に基づく倫理的選択が問題となるでしょう。AIが自己消滅という判断を下す可能性も含め、私たち人間はその創造物に対してどのような責任を持つべきか、そしてどのようにAIとの共存を図るべきかを今後考えていく必要があります。

= = = = =

AIは道具である

この「一番重要な点」が見過ごされてはいないでしょうか。

書店やネット書店、そしてインターネット上には「AI賛美」とも言える「AI活用術」のような書籍・情報が溢れかえっています。ここで一歩立ち止まって「道具を正しく使う側の人間の責任」という立場をあらためて考え直す必要があるのではないでしょうか。

この例に挙げた「メアリー・シェーン」による「フランケンシュタイン」は「19世紀」に書かれた小説です。このような「何世紀も前に書かれた小説」が現代社会において「現実問題」になっていることにも注目したいところです。