「聖書は敷居が高い」と思われている方へ。
オレは一応基督教徒なので、できるだけ毎日「旧約聖書」を2章と「新約聖書」を1章は読むようにしています。この「通読スタイル」は在りし日の「三浦綾子・光世」のスタイルを真似ています。
冒頭に「敷居が高い」と感じてしまうのは「新約聖書」の冒頭「マタイによる福音書」が「イエスキリストの系図」という「カタカナだらけでわけわからん内容」で始まるからだと思うのです。
どこかで読んだ内容なので正しいかどうかはあまり自信がないのですが、この「新約聖書」における「4福音書」は「読者を想定して書かれている」という話がありました。この内容を「自己考察」を含めて列挙してみると以下の通り。
マタイによる福音書:異教徒(ユダヤ教のユダヤ人)に向けて書かれているために、血統を重んじるユダヤ人のために冒頭に「系図」が記載されている。
マルコによる福音書:異国人(ローマ人やギリシア人など)に向けて書かれている。
ヨハネによる福音書:詩的表現を好む読者向け(かなり個人的解釈)に書かれている。
ルカによる福音書:パウロの親友とも言える医師によって書かれているために論文的表現を好む読者向け(かなり個人的解釈)に書かれている。
と考えてもいいかもしれません。
なので決して「最初から順番に読む必要はない」とも言えます。それぞれが「好む(好みの)文体の福音書」から読み始めるのをお勧めします。
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さて「旧約聖書」についてですが、こちらは「物語」として読み始めるととっつきやすいと思います。以前にイタリアに新婚旅行にいくと言った知人に「家には1冊の聖書くらいはあったほうがいいよ」と聖書を贈らせていただきました。そう「結婚祝い」を兼ねてです。
そうしたら素直に目を通してくれたらしく「旧約聖書を読んだおかげでイタリアを"深い歴史的な視点"で観光することができた」と喜ばれました。
そんな感じでもいいのです。
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そして「旧約聖書」にも「新約聖書」にも「難解」だったりする部分が多く出てきます。
誰かの本でどこかの牧師さんがこんな事を言っていたのが記憶に残っています。
「聖書には難解だったり理解できない部分は多い。でもそのまま読んでいていいのだよ、理解できる時が来たら理解できるからその時を待つ気分で軽く考えなさい」
みたいな事をね。
確かにかなりの回数を通読していますが、回数を重ねるたびに「新しい発見」とか「新しい解釈」とか「新しい繋がり」とかが見えてきます。
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何より「美しい母国語としての日本語」に触れる事が出来るのが「1番の魅力」ではないかとも思います。