代表作の「ドグラマグラ」なんてムッチャ難解ですよね。
まずは著者の「意図」を独自解釈してみましょう。
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テーマと物語の流れを複雑化してわざと難解にする事によって「著者の真意」をその「裏」に隠して読者の「読書力」に対して「挑戦状」を叩きつけていると考えて良いと思います。
持論として「小説もひとつのアート」と捉えているオレとして端的に表現したいのは
「夢野久作の小説はサルバドール・ダリの作品を見る心持ちで読むべし」
ですね。
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共通しているのが「シュルレアリスム」の手法に基づいて「絶対は存在しない」という主張です。
一般的に「1日は24時間という決まった時間である」という認識がありますよね?
でも多くの「哲学者」は「時間を定義する事は不可能に近い」とか、多くの「心理学者」は「個人個人で時間の観念(感じ方)はそれそれが置かれた環境によって同じ個人でも変化する」とも言っています。
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そうしたら「ドグラマグラ」はどうやって読んだらいいの?となりますが、まずは「主人公(読者が自分に割り当てる人物)を誰に設定するかが読者に委ねられている」という点に注意する必要があると思われます。
当然「最初に"自分が誰でどこにいるのかわからない"と登場する人物」を「主人公」と捉えても構いませんし、精神科医や精神学者を「主人公」にしても構いません。極端に言えば病院の庭で「ひたすら畝を掘り続けている老爺」や「その後ろでひたすらその畝を埋め続けている老婆」を「主人公」に設定するのも自由です。
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最も大切なのが「尻切れトンボ的な結末」です。
ここで「夢野久作」が意図としているのは「この先に続く物語は読者としての貴方に委ねます。そしてそれが100人の読者が100個の"続き"を思い描いたとしても全てが正解なのです」との主張だと思うのです。
別記事で取り上げるかもしれませんが、極端な例として同じ「夢野久作」の「瓶詰め地獄」や「白髪小僧」なども同様ですね。
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「サルバドール・ダリ」は代表作の「歪んだ時計」において「時間の絶対性の否定」をしていると解釈できます。それを「脳科学者」や「美術学者?」が「専門分野という狭い世界からの見地で考察する」のはナンセンスとしか言いようがないですよね。
結論として
アートとは見たり読んだり聞いたりするものではなく、心や体で感じるものである
という事に落ち着きます。